“固定概念に囚われず”の固定概念はそもそもどこから来たのやら
新年の決意表明的な感じで
“固定概念に囚われず”っと書いた
- 新しい事に挑戦する
- 現状に疑問を持ってみる
- 無理や絶対を思わない様にする
そんな意味合いで自分はこの言葉を使った
さらに言うと
こんな事が引き金でもある
年末にお客様とちょいちょいお話しした
パクチーの話
私はパクチーが嫌いだ、っと言うか食べられない。
だが、パクチーが好きな方も大勢いる
嫁もパクチーが好きだ
パクチー嫌いの自分(達)からするとパクチーは食べ物の味ではない
味ではないと言うか、食べられそうに感じられない
なので、パクチーを食べたことのない人にパクチーの味を伝えようとすると食べ物以外の物が出てくる
その辺に生えてる草、カメムシ。
ちなみに例えはしているが、その辺の草もカメムシも食べたことはない
ただパクチー好きは多い
そんな事から
“感覚”っと言うものは他人によってとんでもない差があるのでは?
んーこれでは言葉足りずですね
食べ物だと
同じものを食べても違う味を感じている
音も
聞こえ方が実は違う、聞こえているものが違う
見ると言う行為も実は全く違う視点や見え方をしているのでは
私の普通は、あなたの普通じゃない
当たり前は当たり前ではない
これしか考えられないも実はそうでもない
あなたから見た私のここは特別かもしれないが私からしたらそれが普通で当たり前
特別が普通で普通が特別
そんな事を頭の中に出て来たのだが
だからどうだって言うところまではたどり着いてはいない。。。
強いて言えば
- 相手に寄り添う、相手の立場で考えて見る
- 答えは1つではない
- いろんな人がいる
そんな事も含めて固定概念に囚われない
しかしパクチーに関しては年に一度くらい寄り添って相手の立場に立ってみようと試みるが見事に跳ね返えされる
子供の時苦手でも大人になったら食べれる様になった理論を引っさげて、挑んで見ても見事な玉砕ぶり
食べ物の味がしねー
でもパクチー好きは多い
きっと好きな人たちには自分と違う味がしているのだと思う
パクチー好きの方は嫌いではないが
パクチーを推してくる人は嫌いだ
パクチーには恨みはありません
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